藤黄の空と蒼い月 

とうおうのそらとあおいつき


夕暮れ迫る藤黄の空。白くたなびいた雲がじわりと雌黄に染まってゆく。
そんな様子を大地を背に見上げる。
景色はあの頃と何ら変わりがない。
遠慮がちに、誰かがそっと傍らに座った気配を感じた。
かつてはこうして寝転んでいると迎えに来るのは血縁者だったり、友だったり、お目付け役だったり
したものだが。
誰か、なんて今はもう一人しかいない。
「…こうして寝転んで空を見上げることを教えてくれたのは兄上だったな」
そんな事をふと思い出す。
「俺はそんな事すら忘れていたよ」
独り言のような呟きに返事はなく、ただこちらを窺う視線だけを感じる。
「昔から父上は俺達に勉強させてたけど、まだ小さい頃はそれでも兄上と遊んだりしてたんだ。その
頃から兄上は期待されててさ。けど俺は一緒に遊びたくてついそばで騒ぐからよく怒られてたよ」
随分と思い出さなかった光景だ、酷く懐かしい。
「いつになく凹んでた俺を兄上がこっそり連れ出してくれて、近くの野原でこうやって寝転んで空を見
上げたんだ。父上からすれば地べたに座るどころか地面に寝転がるなんて、とてもじゃないからさ。
初めてそうやって見た空の広さにびっくりしたな。そのうち俺も勉強を押し付けられるようになって、
…そういうのが嫌で反発してひとり抜け出してはサボってたのがいつの間にか当たり前になって、も
うこれが俺の専売特許みたいになってたけど」
ゆるやかに風が吹いて、静かに染まりゆく世界の色に照らされた背の高い草が揺れる。
「最初は兄上がやってたんだよなあって思うと不思議だろ」
そのまま静かに空を眺めていると、隣から聞きなれた穏やかな声がした。
「昔、砦で兵士が噂してたのを聞いた事がある。春華様が子元殿に向かって小言を言ってたって。
あなたはぼーっとしているから怪我なんかしてみんなに心配かけてって」
「怪我?怪我ってまさか」
起き上がらずに顔だけを傍らに静かに座る元姫に向ける。
元姫はこっくりと頷いて続けた。
「うん、あの時のこと」
「…そっか、母上らしいな」
あの兄上に向かってそんな事を言えるのはあの人くらいのものだ。
いや、母上だからこそなのか。
兄上の気づかれ難い側面を知っていた人。
「俺は…あの頃は自分のことばっかりで全然ダメだったな」
兄上は自分の命を賭けて天命を試してしまうような人だったけれど。
自分が死ぬなんて思っていなかったんだろうって言う奴もいたが、あの人はあそこで死んだならそれ
でもいい、自分はそこまでの人間だっんだろうって本気で考えてたに違いない。まあ多少残念だが仕
方ないって穏やかに目を閉じるような人だったんだ。
―再び蘇る記憶。
「そういえば兄上は暖かい窓際で読みかけの本を置いたまま時折ぼんやりしてる事があったな。そん
な時は俺が決まって肉まんが冷めてしまうよって声をかけてた…ほんと、俺はダメな弟だなあ」
「子上…」
一度思い出したらあれもこれもと溢れ出て、今迄忘れていたことが嘘のようだ。
「兄上に対しては凄すぎてもう羨ましいとか妬ましいなんて感情が出てこないくらいだったけど、気後
れして遠慮してると必ず仕方ないなって溜息をつきながら俺を呼んでくれた。父上のようにこなせて
しまうから、あんな風に振る舞うのを求められて出来てしまうから、…それを苦痛だとか思わないから
当たり前のようにやっのけてたけど。兄上は本当は…」
「子上」
咎めるような声に我に返る。
「それ以上は子元殿を侮辱していることになるわ」
言葉の割に穏やかな眼で、俺を見つめる。
元姫は今では数少ない、思い出の共有者となってしまった。
目を閉じて軽く息を吐く。
「…そうだな。兄上は兄上なりに生きた。あの人のことだからさほど悔いは残ってないんだろうな」
「ええ。それに子元殿には後を託せる貴方がいた」
「は、それについてはどうかと思うけどな」
どいつもこいつも、昔から俺に期待が過ぎる気がしてならなかった。
そんな俺の胸の内を知っているかのように、懐かしむような目をした元姫が藤黄の空をその細い髪に
映しながら言う。
「『本当に父上に似ているのは昭の方だと思うがな』って、いつか子元殿が言ってたことがある。
その時は正直意味がわからなかったけど、今の子上を見ているとそうかもしれないって思う」
「え、俺あんな高笑い出来ないぜ?」
「…そうじゃなくて」
「……わかってるって」
結局、一番俺を買いかぶってたのは母上や元姫、賈充とかじゃなくて兄上だったような気がする。
昔からドヤ顔で出来るだろうって結構無理難題言われてた気がしたけれど、その実絶対に出来ないよ
うな事は言われなかった。俺に対してのさじ加減はかなり絶妙で。
「ホントに、あの人にはかなわなかったな」
今でも鮮やかに浮かぶのは揺るがない強い意志、それを貫き通す苛烈な強さ。
「兄上の事だから、託した後に俺がどんな世の中にしちまっても気にしないんだろうな。小言は言われ
るかもしれないけど」
他人の目など気にしなかった兄上だけど、実は天然過ぎてわかってなかったかもしれないとかそんな
疑問も今更だ。

『お前の好きにすればいい』

今なら、そう聞こえる気がする。
突き放すような口調の癖に、思うがままにやってみろとその先を促すような。
俺に次を託したけれど、すべてを投げ渡してきたわけではなかった。
残された重責を勝手に背負い、逃げて見失い、それに気が付くまでにも随分時間がかかってしまった
ものだ。
まったくしょうがない奴だなって笑ってくれるだろうか。
「…それでも、俺は兄上に恥じないように生きたいと願うよ」
じわりと赤く染まる世界。
生臭い血の香りではなく、純粋な世界の色。
陽が昇り、沈む。
そしてまた再び昇る。
人の世の移り変わりなど関係なく幾度となく繰り返され、これからも繰り返してゆくであろう光景。
どんなに願っても、幼い頃に二人で見た景色をもう二度と一緒に見る事は無いけれど。
今、思い出と共に願いを刻もう。
「子上…」
「帰ろうか、元姫」
背に受ける夕日が何故か暖かく、しかし目の裏に浮かぶのは雲一つない空に満つる冴え冴えとした
蒼い月だった。